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第14回  機動戦士ガンダム 2月28日

またネタがなくなったのか、暫く更新のとまっていた雑記帳。

今回のネタは、機動戦士ガンダム。って、どんどん当初の流れから変わっていってるな。
次はもうちょっと頭のよさそうなテーマにしよう。

さて、ガンダムである。俺はいわゆるガンダム世代からちょっと下っていて、しかもロボットアニメ文化にはとんと疎いお子様だったので、ガンダムのことはほとんどわからない。一時ガンダムの「カードダス」なるもの(自動販売機で売られている1枚20円のカード。ゲームができる)が流行って、その時に手を出したくらいで、その後エヴァンゲリオンだのなんだのというのにはほとんど興味を示さなかった(まぁ、最終的には見ることになったのだが)。

だが、ここへ来てちょっと考えてみる。疎いとはいえ、普通我々の世代は「アムロ」がガンダムのパイロットであることや、「シャア」が逆襲するくらいのことは知っている。また、ちょっと詳しくなると、「シャア専用ザク」が「赤い」事まで知っているのだ。そう。こんなにガンダムと無関係な人生を送ってきているのに、なぜか中途半端に物事を知っている。これは、不思議だ。これはやはりガンダムを一度見ておくべきではないのか。

というわけで、私は大学の近くの本屋に売っていた漫画版ガンダムを一冊買ってみた。……わからん。

思いのほか分かりにくいガンダム。とりあえず2巻を買う気にはなれず、放って置いた。

それから1年(なんと、今までのは1年前の話である)。

方向音痴で全国に名を馳せ、PHS投げることで世界的に有名なかいえん(ガンダム好き)の家で、初代ガンダムを見よう計画を立ち上げた。かいえんは初代ガンダムだけは見たことがないというのだ。そんなわけで、ビデオ屋で借りてきたガンダムを見る。思いのほか巻数が多いのだが(多分全部で40話くらいある)、途中まで見た結果、とりあえずいろいろなことがわかった。

1.最初は、10週間くらいザク(ドラクエで言うとスライムにあたる)ばっかり出てくる

2.話の展開がものすごく遅い(そしてザクばっかり出てくる)

3.しかも、実はストーリーがかなりクール。物語で起こる事件が解決しない(そしてザクばっかり出てくる)

4.終わりの歌が暗い(ザクは出ない)

ということだ。

そう言えば、コミックラビリンスのスタッフの88は、小学生の頃ガンダムの開発者になるつもりだったらしい。彼女も結構なガンダムマニアである。


第13回 から揚げ 1月29日

雑記帳はギャグにしない傾向が崩れたのは、いつのころからなのだろう。まあいい。

今回のテーマは、から揚げである。軟骨のから揚げ、芝エビのから揚げなど、飲み屋ではかかせないメニューだが、今回取り上げるのはもちろんから揚げの王者「鶏のから揚げ」である。

から揚げは文化である。

鶏のから揚げは子供から大人なまで幅広く人気があり、弁当のおかずにも重要な位置をしめることの多い定番メニューである。だからこそ、から揚げなどというものはどこに行っても普遍的なものなのだと思っていた。しかし。

そんな私の考えを見事に打ち砕いたのは、高校の時、部活でとある公園に遊びに行った時だった。確かその時は体育の日で、文化系部活の我々がたまには運動しようなどといきまいて、いい年こいて警泥(一部地域では泥警)をしに行ったのである。その際に各自お弁当のおかずを持って来ようという企画があったのだ。もちろん自分で作ってくる必要は無く、ほとんどはそれぞれの母親が作ったものを持ってきた。

さて、昼食。

各自、それぞれの弁当のおかずを開く。から揚げ係が(たぶん家は違った)数人おり、何人かの家のから揚げを食べることになった。

……違う……

確かに、それは唐揚げである。鶏のから揚げだ。それ以外のどんな料理でもない。「うなぎの蒲焼だ」と断言できたらそれはもう病院に行ってもらうしかないくらい鶏のから揚げである。

しかし、違うのだ。何かが違う。もちろん我が家のものとも違うが、それ以前にそこにある数種類のから揚げそのものからしてどうも違う。材料は鶏肉だ。そして、から揚げだ。なのに、味付けや形状がまるで違う。そのため、同じ「から揚げ」という名称を与えられていても、あたかも全く別の料理のような印象さえ受けてしまう。これは驚きだ。

同じようなことが、大学に入ってからもあった。某雑誌の編集部にいた私は、「大学の周りの弁当屋」のような企画に参加し、周辺の弁当屋を巡ったのだ。なぜか取材と言うと大抵弁当がタダになるという恩恵にいやと言うほど授かった私は、ここでもから揚げの奥深さを知る。

から揚げ弁当は、、どの弁当屋にも必ずある。ある意味、弁当業界のグローバルスタンダードである。まさに地球的規模の普遍性があってしかるべきだが、しかしその実情たるや、全く別物。おなじ「から揚げ弁当」のから揚げが、実に多彩な形態をとるのである。店によっておばちゃんの態度が違うのと同じように、から揚げの味も実に様々だ。

もう一度言う。から揚げは文化である。それは、各家庭、各店舗によって実に様々な味と形を持っている。我々は自分の育った文化のから揚げを、今以上に知り、それを守りつづけなければならない。それがひいては日本の未来を世界がうらやむ為の布石となるのではないだろうか。(どんどん意味不明)


第12回 お年玉 1月21日

雑記帳はいいから、早く旅行記を更新しろとか言われそうだが、久しぶりに雑記帳を書こう。
今回のテーマは、お年玉である。ちょっち時期外れ?

とある友人はお年玉のことを「年玉」と略す。

お年玉はお年玉でいいじゃないか。なんでもかんでも「お」を取るんじゃない。

またある友人は、「おとし」とか言う。ここまで来ると何のことやらわからない。

それはそうと、そろそろ私もお年玉をもらう立場からあげる立場に移行しようとしている。

私の家にはなぜか親戚内の暗黙の協定のようなものがあるらしく、お年玉は大学を卒業するまでもらえるしきたりになっている。今年もそれなりに豊作であった。一人一人の額はそれほど大した金額でもないのかもしれないが、父親の兄弟が多い為、年初めは書き入れ時である。おかげでハードディスクを増設することができた。

しかし私ももう3年生。来年が最後になるのだろうか。いやいや、留年すればまたお年玉がもらえる……?

と、不吉かつ可能性としては否定できない冗談はさておき(洒落になってない)、今度は親戚の子に自分があげなくてはならない。私は兄弟が弟一人なので、甥とか姪はそれほど生まれなそうだが、従兄弟の子供とかが多いので、結構厄介そうだ。

働いてもいないのに無条件でまとまったお金がもらえる。なんて素晴らしいイベントなんだろうと思っていたが、あげる側に回るとなんて理不尽な行事なのだろう。何も悪いことをしていないのにお金だけ吸い取られてしまう。しかもその金はガキのおもちゃ代に消える。おかしい。日本の文化はどこか間違っている。

 

間違っているといえば、先日、伯父からお年玉が届いた。弟が帰ってくるのが遅かったので、先に自分のお年玉袋だけを開ける。

ちびまる子ちゃんでも昔言っていたが、お年玉袋に名前が書いてあるというのは、兄弟間の金額の違いを暗示していてなかなか思うところもひとしおである。といっても、俺は上なのでその辺はしっかりしていてもらわねばという感じだが。さて、お待ちかねの金額確認。

5000円。

走る違和感。あのおっさん、去年は10000円だったような気がする。

母親曰く、「あそこは確か、高校生以上はみんな5000円って決めてるみたいよ」

果たしてそうだっただろうか。確かに俺の記憶力は最近とみに否定されるが、確かに去年は10000円入っていたような気がして仕方が無い。しかし、あぶく銭はあぶく銭。ありがたく頂いておこう。

そしてその夜、悲劇は起こった。弟が帰ってきた。そして、当然のようにお年玉袋を開ける。

弟「お!すげぇ!

兄「……まさか……

弟「10000円入ってる!

 

またがってる!!!!!!

袋に名前書いておいて間違えるなよ!!おい!!

こうして、俺は5000円取りはぐれた。

余談だが、最近「またがった」が標準語化している気がするのだが、どうだろう。


第11回 遠慮 1月2日

ちなみにまず最初にいっておくが、私は遠慮しない星人である。

遠慮しない星人とは、地球から遠く離れること20kmくらいにある、惑星「遠慮しない星」に住む知的生命体のことで、遠慮しないのが特長だ。では、我々遠慮しない星人にとって遠慮しないということはどういうことなのか。遠慮しない星の民俗学に詳しい早稲田大学理工学部教授鬼瓦権造氏はこう語る。

「彼らは、遠慮ということを知りません。なぜなら、遠慮とは相手の好意を踏みにじることであると考えるからです。自分が相手に何かをしてあげること、というのは、多かれ少なかれ自己犠牲の精神に基づきます。
 自分のことよりも他人のことを考える。それは美しい行為であり、相手の幸せを願うことで自分も幸せになるということにもなります。それは、時には『やさしさ』という言葉で表されます。このように、他者に何らかの善行を施すということは、他者の幸せを考える一方で、自分が誇らしい行為をするという満足感を得るということにつながるのです。
 では、遠慮とは何か。それは、受ける側にとっては施しを受けないということで自分の満足を得ることもあり、また相手に負担を与えまいという気持ちが働くこともありますが、与える側にとっては自分の行う善行が相手に否定されること。その結果、自分の善行が相手に受け入れられることなく、空回りしてしまうことにつながるのです。
 例えば、満員の電車に座っていると、目の前におばあさんが立っています。そこで、席を譲ろうと声をかけることにしましょう。そこでおばあさんが何らかの理由で遠慮して、「結構です」と答えます。あなたの気持ちはどうでしょうか? せっかく勇気を出して席を譲るといったのに、断られてしまったのです。別におばあさんを恨む気持ちにはならないでしょうが、どこか虚しい気持ちが残ることでしょう。遠慮しない星人たちはそれを極端に嫌うのです」

遠慮という形にはいろいろあるだろうが、上にあげたような遠慮はどちらかというと受身の遠慮だ。何かしてもらうことに対して、自分が身を引く。

他方で、何かしてもらうのが前提ではなく、みずから引くという遠慮もある。これは受身の遠慮とは別次元で、これがちゃんとできてないと世の中うまく渡れない。この場合の遠慮しないというのは、言い換えれば自己中心的な態度を取るということだ。それではいけない。自分の思うように行く為に他者を露骨に排除していくというのは、相手にものすごく大きな怒りと哀しみを与える。普通に考えて、それがいい結果を生むわけが無い。

先ほど箱根駅伝を見に行った。やけに早く家を出て、車で箱根まで数時間。テレビによく映るポイントみたいな場所があって、そこを目指して5人で登山電車を乗り継ぎ、寒空の下走者を待っていたわけだ。

さて、早稲田の応援ということで集まった我々。そのスペースにはまだほとんど誰もいなかったので、ベストポジションをキープした。ここならテレビによく映る(笑)。

しかし。そこに現れたのが中央大学の応援集団。OB中心であろう、50歳前後のおじちゃんおばちゃんで構成された数十人の有志集団。突如出現した彼らは、あたかもオセロのように我々早稲田の応援者を挟み込んだ。完全に無視される我々。その上、彼らは中央大学の巨大な応援用横断幕を開いて、挙句の果てに「これ持ってくれますか」という失礼なことまで言う。何様のつもりだろう。

さらに彼らは、我々を挟んで横に広く取ったスペースをすべて中央大学のものにしようと、こんなことを言ってきた。

「すみません、ここどいてくれますか」

それはできねぇだろう。おい。こっちだって朝早く起きてここまで来たんだ。

「どうせ君たち現役でしょ? 来年また来なさい」

何様? お前ら。しかし抵抗空しく、大多数の前に無理やり押しのけられる5人。多数派の論理に屈する少数派。

恐らく、彼らは自分たちがそれほど悪いことをしたとは思っていない。むしろ、当たり前の様子だ。

自分たちが用意した応援が成し遂げられることが、全てにおいて最優先され、何よりも重要なことであると思っている。もちろん、他大学の応援に来ている人間が自分たちより早く来て場所を取っていたとしても関係ない。自分たちの必要な作業に邪魔な人間がいたので、どいてもらう。どいてもらえないはずがない。なぜなら、自分たちのやっていることは大勢の人間が絡んでいることなので、数人で集まっている彼らとは違うからだ。もちろん数の多い我々のほうが立派だし、彼らもそれは重々承知の上だろう。

何度もいう。まさに何様のつもりだ、である。むしろ、多数の人間だからこそ、力があるからこそ世の中のルールに敏感にならなければいけない。こういうときこそ、遠慮すべきだ。力の無い、少数派の人間が多数派の人間に遠慮することが多い世の中。間違っているとは思わないか。